鎮魂八神、伯家神道で教わっている神様を下記に列挙します。
高皇産霊神(たかみむすびのかみ)
神産霊神(かみむすびのかみ)
生産霊神(いくむすびのかみ)
足産霊神(たるむすびのかみ)
魂積産霊神(たまつめむすびのかみ)
大宮比女神(おおみやひめのかみ)
御饌津神(みけつかみ)
事代主神(ことしろぬしのかみ)
大直日神(おおなほひのかみ)
※霊の字は旧漢字です。
鎮魂八神、伯家神道で教わっている神様を下記に列挙します。
高皇産霊神(たかみむすびのかみ)
神産霊神(かみむすびのかみ)
生産霊神(いくむすびのかみ)
足産霊神(たるむすびのかみ)
魂積産霊神(たまつめむすびのかみ)
大宮比女神(おおみやひめのかみ)
御饌津神(みけつかみ)
事代主神(ことしろぬしのかみ)
大直日神(おおなほひのかみ)
※霊の字は旧漢字です。
昨年、神事行事の勉強会で講師の先生から「天津祝詞(あまつのりと)の太祝詞(ふとのりと)」とは何かと問いがありました。
これは大祓詞、伯家神道に伝わる中臣御祓にあり、奏上されます。
諸説あるようで、そのときは自分で調べるように言われましたが、知っていると役に立つとのことでした。
このあまつのりと・ふとのりとといいますのは、中臣の祓によって、これを宣るならば、天津神・地津祇(くにつかみ)は、そのご神徳をもって、罪という罪、咎(とが)という咎を祓い給うということで、神道の大切な事柄です。不学愚智な私など、なかなか申し上げ得ぬことですが、お尋ねですから、一通り申し上げましょう。天津のりとといいますのは、天の徳にのり、ふとのりとといいますのは、地の徳にのりますことで、天地(あまつち)の気にのるということです。中国でも「天に則る」とか、「天地の法」とか申します。また、「天にしたがう」、「天命を知る」などということも、「これを知りてその令命(れいめい)にしたがう」ということのように聞いておりますが、中国の学問は、よく学びませんので知りません。日本の教えは、のりという言葉で、乗・法・則、いずれも通じることで、言葉の妙用、言葉によって伝える教えです。〔『神道唯一問答書』坂田安儀訳・編著(神道講学所)〕
この後も、説明がつづきますが、ここでは後は略させていただきます。(最後は下記のように述べられています)
なお、天津祝詞・太諄辞(ふとのりと)のことは、言語につくしがたき神の御伝えです。
先日、「天の益人」、「国つ神」についてご紹介しました。夏越の大祓が近づいているので、伯家神道に伝わる祓詞、中臣御祓についてもう少し書いてみます。
中臣御祓に、「罪」、「咎(とが)」、「祟(たた)り」という言葉が出てきます。
それについて、
この日本は神国で、高山短山(ひきやま)に鎮まります神々、一の宮の産土鎮守、八百万の神々が、その所々の者をお守りになって、功績のあるものには幸いを賜り、悪い者には災いをお与えになります。しかし、この世の目に見えることは、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)がつかさどられることで、人が知る善悪は、天皇陛下が掌られ、賞罰をもって正されます。また、形に顕れず、世の人の見ぬところ、知らぬところでなされた善事、悪事、または心の中でなされた善事、悪事、または心の中でなされた善念、悪念をお知りになるのは、神の御心(みこころ)で、やはり賞罰明らかにして、罪を咎(とが)め、たたりなさいます。その祟(たた)りということは、もし自分が人をにくむと、またその人が自分をにくむように、神の御心に叶わない心をもてば、その人は常に苦労心配がやむことがありません。これを神の咎めといいます。その苦労心配が募って、気血がとどまり、病気にかかるなど、神の祟りといいます。ところが、苦労心配のない人は、ほとんどありません。ゆえに神の御心に叶う者は、ほとんどないと思いなさい。苦労心配がなく、心安らかなれば、神の御心に叶っていると思いなさい。少しの苦労心配があるならば、少し、神の御心に叶っているのだと思いなさい。苦労心配が大いにあるならば、神の御心に大いに叶わず、後に、病難か災難かがくると思いなさい。〔『神道唯一問答書』坂田安儀訳・編著(神道講学所)〕
なお、この罪・咎・祟りについては一般に流布されている大祓詞にはありません。参考になれば幸いです。
夏越の祓特集をアップいたしました。
四国の麻栽培再生について、日々話が進んでおります。
四国の麻栽培再生について、話を進めている最中です。
さまざまな話を人とするわけですが、未来の日本を考えている方がいらっしゃって、そのビジョンを説明いただき、「蒼生(あおひとぐさ)」、「天(あめ)の益人(ますひと)」、「国つ神」のことを思い出しました。
これは神代から伝えられた三通りの人の生き方を示しているそうで、ご紹介いたします。
まず、蒼生といいますことは、常に飲食を思い、色にふけり、食べもの、衣服、調度の品、住まいなど、すべてぜいたくなことを望み、我が家の富を増やすことのみ考え、妻子に愛着し、自分の利益だけを思いつづけ、欲張りで、人の苦しみを思う心もなく、自分ひとりの楽しみを願うような人の生き方を申します。動物にも劣るものです。もちろん、神明の御心に叶うことなく、1日も安らかなることなく、苦悩に沈み、親族との間も、争いごとが絶えず、親子の仲も、不仲となって、子孫も必ず亡びて行くものです。恐ろしいことです。
次に、天の益人と申しますのは、まず自分が功績をたて、その功績を後の世までも伝えようと願い、自分の先祖の名を世にあらわし、財産を得、地位を得、自分の子孫が栄えるように、自分の名をけがさないように、と願って暮らして行く生き方を申します。これは誰もが考えることですが、神明の御教えに照らしてみますと、間違っていることです。したがって、一生を通じて、楽しみと苦しみとが相半ばして、心身安らかに、永久の栄えを得ることができません。一度は栄えても、必ず衰え、亡びるものです。
最後に国つ神と申しますのは、常に、世のため、人のために、力惜しまず働き、国も安らかなれ、人々も安らかであれと念じ、飢えている人がいれば、ただちに養育(やしな)い、寒さに凍えている人を見れば、衣服を与え、人の苦しみを自分の苦しみとし、病人や貧しい人を助け救い、愚かな人、あるいは、罪を犯して苦しみに沈んでいる人を見れば、憐れに思って助け恵み、我が身を忘れて人のために尽くして行く人を、国つ神と申します。これこそ、神明の御心に叶い、心のうち常に安らかで、楽しく、災いを避け、歓喜(よろこび)尽きることがありません。いつの世でも、世の人々から崇められて、子々孫々に至るまで栄えて行く人は、この国つ神の徳を備えている人なのです。尊いことです。たとえ、一時の栄えを得ても、この国つ神の心がけがなければ、神明の怒りを受けて、苦悩に沈み、病難、災難をうけて、自分だけでなく子孫も衰微して行くものです。〔『神道唯一問答書』坂田安儀訳・編著(神道講学所)〕
6月、12月は大祓があり、蒼生を除くこれらの言葉が大祓詞(中臣御祓)で奏上されます。
伯家神道の五魂についてこちらにまとめていました。
もう少し書いてみます。
五魂とは、荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)・奇魂(くしみたま)・幸魂(さきみたま)・精神魂(くわしみたま)です。
荒魂 —– 生成・再生の「みたま」。生命エネルギーの本源。
和魂 —– すべての生命は全一のつながりをなしてある。縁を生きる生命の本質—柔和・精熟した「自然体」をなす「みたま」。
奇魂 —– 「祈り」のみたま、顕幽を一如にむすび、不可能を可能にし、奇跡を起こし真理をあらわす「みたま」。
幸魂 —– 「愛」のみたま、与えて与えて与えつくす「みたま」。幸せを生む「みたま」。
精神魂 —– 「統合」のみたま、四魂を旋律的に統合して人格をなす。
そして、五魂を鎮めるのが六種の拍手です。
十種神宝御法では拍手をさずけていただきます。(拍手によってどういう神様を迎えるかが異なります)
宮司とはじめてお目にかかったのは2005(平成17)年8月に身曾岐神社(山梨県北杜市)で開かれた日本の精神文化の源流である古神道の奥義を広く一般に相伝するための講座、初学修行座(当時3泊4日)の聴聞でした。
講師として立たれた宮司は神道や古事記についてホワイトボードに書きながらご説明してくださっていたことを思い出します。
この講座を紹介いただいたのが知り合いだった同神社の神職からでしたので、ありがたいことに私は宮司(伯家神道)の直門として入門させていただけたようです。
宮司とのことで一番心に残っていますのは、2011年10月12日に神社で上記の神職とご一緒に宮司にお会いすることになり、今何してる?と聞かれたときのことです。(このときが宮司とお話した最後でした)
古神道を学ぶ過程で行きついた仕事のこと、おお麻(ヘンプ)のことや神道との関わりをお話し、さぬきいんべの名刺をお渡しすると、「古神道を現代風に伝えるのは素敵だ」とおっしゃられ、「これが漢字(讃岐忌部)だったら頭を下げなければいけない」と。(誰でも読め親しみやすいように屋号を「さぬきいんべ」とさせていただきました)
また、「四国へ行きたい」ともおっしゃり、大麻比古神社(徳島県)や金刀比羅宮(香川県)の名を挙げると、ああ行きたいねぇと目を輝かせられていたように思います。
この頃は前年に創業はしたものの香川県高松市での活動を断念、実家のある愛媛県西条市へ引っ越し、活動を一時休止した上で再開ししばらくしてでしたので宮司とのこの面談で大いにエールをいただいた、背中を押していただいたと思っております。
他にも、いつか四国をご案内したいと神社をピックアップしていたこと、東京でのご修行や相伝での直会でのことなど宮司との思い出は遠方ですので私は機会は少ないと思いますが数々思い出されます。
衷心より、ご冥福をお祈り申し上げます。
令和2本目。見えないもの、、霊の話をしようとしているのではありません。
伯家神道・十種神宝御法の修行座には食べること、食事も含まれています。
どうやって食べるか。
・食前感謝のことば
たなつもの(食物)百々(もも)の木草も天照らす日の太神(おおかみ)の恵み得てこそ
・食後感謝のことば
天地(あめつち)の神の恵みを見に受けて満ちたる生命(いのち)うけひ励まん
天地の恩、社会の恩、親・先祖の恩。いただく時このことを思いながらご飯をまず三口かみしめるのです。教わってすごくいいことだと思い、それからこの「三口かみしめる」のを毎食事時にしています。このおかげで一粒の米、一滴の汁まで尊いと思えるようになりました。
天地の恩は、天体の運行、太陽、月、雨、風、雪、花、山、川、草、木、大地、海など自然の営み、神々に対する恩。自然の恵みがなければ、ということです。
社会の恩は、あまたの人々の働きに対する恩。米にしても農作業した人、運んだ人、売った人など自分の口に入るまでにさまざまな人の働きがあるわけです。
親・先祖の恩は、自分という存在には親がいて、親にはまたその親がいて、その親にはまた親がいてという命の連鎖に対する恩です。10代さかのぼると、、
食事の前にいただきます、終わったら、ごちそうさまと言う人がいます。
(前略)もう1つ、日本が世界から尊ばれているのは神道が国家精神の背景にあるということです。日本には「八百万の神」という言葉がありますね。山や川にも神さまが宿るという考え方はとても神聖で神秘的です。日本人は世界で一番自然に近い民族だと私は思います。
食べ物に関してもそうですね。「もったいない」「いただきます」の心は、食べ物の命に対する敬いの気持ちです。食堂などで見ていても、日本人の多くは1人で食事をするときでもいただきますと言います。中には胸の前で両手を合わせる人もいます。そして食べ終わると「ごちそうさま」と言う。
日本以外の民族ではそういうことはありません。店員に「サンキュー、グラッチェ」を言う人はいますが、敬虔なクリスチャンでなければ黙って食事を始めて黙って終えていきます。(後略)(「地方再生のレシピ」マンリオ・カデロさんの言葉より)
3.11の震災の後、「絆」という言葉がしきりに言われました。絆は目には見えません。
それと同じように天地の恩、社会の恩、親・先祖の恩は目には見えません。感じるものです。
日本人は昔から目に見えるものはもちろん、目に見えないものを大事にして生きてきたんだろうと思います。
すべてつながっています。
本当に見えないものの話は機会ありましたらまた。(^_-)
・参考文献
「地方再生のレシピ」奥田政行著(共同通信社)
日本を訪れる外国人観光客は、和食がユネスコ無形文化遺産に登録された2013年に1000万人を越え年々増加、2018年には3000万人を突破しました〔日本政府観光局(JNTO)調べ〕。
2020年には東京オリンピックが予定されており、さらに増加することが予想されます。
外国人観光客が増えると、私たち日本独自のものとは何?と考えますね。私が感じる日本と西洋のちがいをご紹介したいと思います。
・多神教⇔一神教
日本は多神教、八百万(やおよろず)の神で、水の中には水の神、木の中には木の神がいるというように、ありとあらゆる自然物に神様がいると考えます。例えば、神社のご神木にしめ縄が巻かれているのはご存じですね。
それに対してキリスト教は一神教です。
・なるようになっていく、なるべくして、なる(かむながら)⇔ナニナニすべき
日本は、「かむながら」の精神で、(神の御心のままに)なるようになっていく、なるべくして、なるという考え方です。
一方、西洋は非常に目的志向が強い、ナニナニすべきと、思想や理念に頼り相手を説得していこうという啓蒙主義的な考え方です。
・きれいきたない(伊邪那岐命のミソギ)⇔善悪(アダムとイブ)
日本人はきれい、きたないを大切にします。古事記において伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は黄泉の国から帰ってケガレを洗い流すためにミソギをします。それから、人をののしるとき「きたねーゾ」と言う人もいます(笑)。
西洋は前述のごとく、~すべき、~してはいけないと善悪を大切にします。
・型(作法、祭り、伝統行事など)⇔論理(ナニナニすべき)
日本は「型」を大切にし、型で伝承されます。芸道でもそうでしょう?その型の中に大切なものがすべて詰まっているように思います。
そういう目で見ると、地域の祭りや伝統行事は、型が伝承され子々孫々まで伝わっていきます。300年続いている地元の西条まつりを以前にも増して大切にしたいと思うようになりました。
対して、西洋は論理(ナニナニすべき)で伝達されます。
・水平的(動作、作法)⇔垂直的
弓道(弐段)の体験もありますのでわかるのですが、日本の作法は水平的ですよね。流れるような感じで動いていきます。対して、西洋の格闘技、ボクシングなどは動きが激しく、また上下(垂直的)のフットワークで相手に対しようとします。他にも例がありそうです。
・はらう(引き算)⇔付加・盛る(足し算)
はらうと言えば、やはりまず思い浮かぶのは神社の「お祓い」でしょう。
伯家神道も祓いを大切にします。体験者はうなずきますね。^^
他にも日本人にとって香りは、西洋の香水のように人をひきつける機能よりも、邪気をはらう方が目的です(これは別のところで紹介させていただこうと思います)。
・言霊(母音、子音+母音)⇔言葉
日本には言霊という思想があります。私は祝詞の中でも身曾岐祓を唱えるととても気持ちよく感じます。またはじめて聞いたとき子守歌のようだと思いました。
なんとなれば日本語はすべて母音が伴っているからなんですね。それから何気なく使っている日本語だけでなく、日本語の古語、大和言葉にも興味を持つようになりました。
対して英語は、議論、討論、そういうのに非常にいいですが、気持ちを伝えるとかニュアンスを伝えるのは不向きとされます。
・自然順応・尊重⇔自然克服
日本は自然を大切にします。
神というものは植物、花、いろいろなものの中にあまねく存在しているというのが日本人の自然観、目の前にあるひとつ1つが神、命とすればなおさらです。
私たちの食生活というのは実は神様と私たちの出会いなんです。
西洋は自然はものですから都合のいいように破壊していきます。
・和(全体、一元)⇔分離(個)
日本人が和を大切にするというのはご存じのとおりです。すべて同じ命ですしすべてがつながっているんですから。
障子や欄間は空間を完全には遮断してません。1つの空間としてみているんですね。
私は、20歳過ぎても西洋がすばらしく日本はダメと考えてきました。「ここがヘンだよ日本人」というTV番組もありました。日本の音楽よりも洋楽をよく聞いていたし、目の前のものは「もの」でした。
ところが、知人のすすめで伯家神道・十種神宝御法の修行座を受け、学ぶうちに日本の文化はすばらしいと思うようになりました。高校時代、弓道をした体験(弐段)と相まって日本を見直しました。
自分が気づいたことを伝えたい、古神道で重要視されている祓いといえば、おお麻(ヘンプ)だと思い、今日のさぬきいんべがあります。
再び、日本的なものが注目されている時代。2012年は古事記編纂1300年の節目でした。
来る2020年は東京オリンピックの年だけでなく、日本書紀が完成してから1300年の節目です。
参考文献:
「みそぎ」(伯家神道)
「ヘンプ読本」赤星栄志著(築地書館)
こちらで伯家神道について書きました。いろいろなことが神様を大切にしているのは想像できると思います。
修行座の最初に「潔斎」の作法を教わりますが、まず火の神様の名を唱えるのです(その後、火打ち石を用いて潔斎、ちゃんと作法があります。特に神具・アクセサリー類は清浄であることが重要と考え、潔斎してからお客様へお届けしています)。
火の神様は古事記では「神生み」条で火之夜芸速男神(ひのやぎはやおのかみ)、または火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)として登場します。
遠くはるかな昔、男の神と女の神がいらした。男の神を伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、女の神を伊邪那美命(いざなみのみこと)といった。そのころ大地は、かたまったばかりであったから、ふたりの神は、たくさんの神々を生み、国づくりをすすめていた。
ところが火の神をお生みになった時、伊邪那美命(妻神)はおおやけどをしてお亡くなりになる。
愛媛民芸館には囲炉裏(いろり)があります。実際使っているのを見ました。茶道経験者いわく茶道では炭手前というのがあるそうで、バーベキュー用の炭と違いバチバチ燃えるのではなく、品のある燃え方をしていました。(私はお相伴にあずかれませんでしたが、1月に上に網をしいて来られていた方に切り餅を焼いてふるまったそう)
ところで最近、家から「火」が無くなっています。そうです。オール電化にともなうIH調理器の普及です。
そういえば火のつけ方(消し方)を知らない子どもがいるという話を聞いたことありました。
私の家では台所に荒神さん(カマドの神)を祀っていました。昔の人は火を大切にしていたんですね。
愛媛民芸館へ行くと、昔の人が何を大切にしていたかがわかります。
さぬきいんべはモノだけでなく神様を、大麻(ヘンプ)だけではなく他のものも大切にしたいと思います。なぜならすべてつながっているのですから。
参考文献:
「現代語古事記」竹田恒泰著(学研)
「日本人の忘れもの1」中西進著(ウェッジ文庫)
こちらに伯家神道のことを書いています。正直、実際のところ字面で伝えられないことの方が多いです。
しかしここでは言葉にしないと伝わらないので書いてみます。
宮中祭祀を司ってきた神祇伯に連綿と受け継がれ、今に継承された「みそぎ行法」のことと上記リンク先で書いてます。難しいことはわかりません。
私は知人の神職の紹介で、古神道の奥義を広く一般に相伝するための修行座をおこなっている神社の直門として縁をいただきました。
みそぎとはきれいになること。きれいにならないと道が開けていかないというとおわかりになるでしょうか?
行が進むと八種から「拍手」を授かります。それはどういう神様を迎えるかということ。つまり八種には八種の拍手、七種には七種の拍手、、があるということです。
何を置いても体験されるのが一番わかりが早いと思います。
古神道とは古い神道ではなく本来のという意味ですが、私がもっとも感銘を受けたのは、命を大切にしていることです。
この世のすべては生命。そう日本人は認識しました。日本人にとって「物」は存在しません。古代においては「もの」という言葉は鬼を意味するものであったそうです。
目の前のものはすべて命。そうとすれば例えば、日本の文化が自然を大切にしているのもわかりますし、もったいない、いただきます、ありがとうといった普段私たちがよく使う言葉がより心に響きます。
息のみそぎ、大声の祓い等とともに行じることでそういうことがわかってくるのがすごいと思います。
そして、すべての命は同じ、すべての命はつながっているんですね。
もともと先祖供養は神道ですし、ヨガのもとになったのも古神道にあります。祓いはもちろん、拍手、祓祝詞、作法、古事記などを学ぶにつれ、古神道は日本の文化の源流だと思うようになりました。
さぬきいんべ創業当初、おお麻(ヘンプ)文化の復興をテーマにしていましたが、それを追いかけていると知らず知らずのうちに機織り、草木染め、自然布、糸魚川ヒスイの勾玉、いわゆる手仕事、民藝などが不思議に身の回りに集まってることに気づいたのが2~3年ぐらいたってからです。
スピリチュアルなどで、「ゼロ」の状態になると必要なものが向こうからやってくるというのはそういうことと思います。
日本には言霊という考え方があり、「言葉には現実の出来事を引き起こす力がある」とされてきました。
日本の古代史の舞台で活躍したとされる忌部氏とは、「穢れを忌み嫌い、神聖な仕事に従事する集団」との意味があるそうです。人のご縁から、これしかないと名付けた「さぬきいんべ」は、類は友を呼ぶ、名は体を表すという感じで、本当に名前の通りそんな風になってき現在に至っております。
さぬきいんべでは、特に神具、アクセサリー類は清浄であることが重要と考え、上記の伯家神道の修行座で教わった潔斎の方法(火打ち石を使う)で、潔斎してお客様にお届けしております。
また、ある月次祭でお供えされる伊勢エビ、アワビ、鯛をしばる麻紐を毎月つくったり、お供え物をきれいにならべたり神事に関する準備もしております。
参考文献:
「日本の建国と阿波忌部」林博章著
「みそぎ第十号」(伯家神道)