「罪」、「咎」、「祟り」について

先日、「天の益人」、「国つ神」についてご紹介しました。夏越の大祓が近づいているので、伯家神道に伝わる祓詞、中臣御祓についてもう少し書いてみます。

中臣御祓に、「罪」、「咎(とが)」、「祟(たた)り」という言葉が出てきます。

それについて、

この日本は神国で、高山短山(ひきやま)に鎮まります神々、一の宮の産土鎮守、八百万の神々が、その所々の者をお守りになって、功績のあるものには幸いを賜り、悪い者には災いをお与えになります。しかし、この世の目に見えることは、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)がつかさどられることで、人が知る善悪は、天皇陛下が掌られ、賞罰をもって正されます。また、形に顕れず、世の人の見ぬところ、知らぬところでなされた善事、悪事、または心の中でなされた善事、悪事、または心の中でなされた善念、悪念をお知りになるのは、神の御心(みこころ)で、やはり賞罰明らかにして、罪を咎(とが)め、たたりなさいます。その祟(たた)りということは、もし自分が人をにくむと、またその人が自分をにくむように、神の御心に叶わない心をもてば、その人は常に苦労心配がやむことがありません。これを神の咎めといいます。その苦労心配が募って、気血がとどまり、病気にかかるなど、神の祟りといいます。ところが、苦労心配のない人は、ほとんどありません。ゆえに神の御心に叶う者は、ほとんどないと思いなさい。苦労心配がなく、心安らかなれば、神の御心に叶っていると思いなさい。少しの苦労心配があるならば、少し、神の御心に叶っているのだと思いなさい。苦労心配が大いにあるならば、神の御心に大いに叶わず、後に、病難か災難かがくると思いなさい。〔『神道唯一問答書』坂田安儀訳・編著(神道講学所)〕

なお、この罪・咎・祟りについては一般に流布されている大祓詞にはありません。参考になれば幸いです。

夏越の祓特集をアップいたしました。

四国の麻栽培再生について、日々話が進んでおります。

「蒼生」、「天の益人」、「国つ神」について

四国の麻栽培再生について、話を進めている最中です。

さまざまな話を人とするわけですが、未来の日本を考えている方がいらっしゃって、そのビジョンを説明いただき、「蒼生(あおひとぐさ)」、「天(あめ)の益人(ますひと)」、「国つ神」のことを思い出しました。

これは神代から伝えられた三通りの人の生き方を示しているそうで、ご紹介いたします。

まず、蒼生といいますことは、常に飲食を思い、色にふけり、食べもの、衣服、調度の品、住まいなど、すべてぜいたくなことを望み、我が家の富を増やすことのみ考え、妻子に愛着し、自分の利益だけを思いつづけ、欲張りで、人の苦しみを思う心もなく、自分ひとりの楽しみを願うような人の生き方を申します。動物にも劣るものです。もちろん、神明の御心に叶うことなく、1日も安らかなることなく、苦悩に沈み、親族との間も、争いごとが絶えず、親子の仲も、不仲となって、子孫も必ず亡びて行くものです。恐ろしいことです。

次に、天の益人と申しますのは、まず自分が功績をたて、その功績を後の世までも伝えようと願い、自分の先祖の名を世にあらわし、財産を得、地位を得、自分の子孫が栄えるように、自分の名をけがさないように、と願って暮らして行く生き方を申します。これは誰もが考えることですが、神明の御教えに照らしてみますと、間違っていることです。したがって、一生を通じて、楽しみと苦しみとが相半ばして、心身安らかに、永久の栄えを得ることができません。一度は栄えても、必ず衰え、亡びるものです。

最後に国つ神と申しますのは、常に、世のため、人のために、力惜しまず働き、国も安らかなれ、人々も安らかであれと念じ、飢えている人がいれば、ただちに養育(やしな)い、寒さに凍えている人を見れば、衣服を与え、人の苦しみを自分の苦しみとし、病人や貧しい人を助け救い、愚かな人、あるいは、罪を犯して苦しみに沈んでいる人を見れば、憐れに思って助け恵み、我が身を忘れて人のために尽くして行く人を、国つ神と申します。これこそ、神明の御心に叶い、心のうち常に安らかで、楽しく、災いを避け、歓喜(よろこび)尽きることがありません。いつの世でも、世の人々から崇められて、子々孫々に至るまで栄えて行く人は、この国つ神の徳を備えている人なのです。尊いことです。たとえ、一時の栄えを得ても、この国つ神の心がけがなければ、神明の怒りを受けて、苦悩に沈み、病難、災難をうけて、自分だけでなく子孫も衰微して行くものです。〔『神道唯一問答書』坂田安儀訳・編著(神道講学所)〕

6月、12月は大祓があり、蒼生を除くこれらの言葉が大祓詞(中臣御祓)で奏上されます。