年の終わりとはじまりにこそよくわかる日本の文化、「キヨメ」の話

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神社仏閣へのお参り、手洗いや洗顔、また入浴、掃除など私たちがふだん当たり前におこなっている「清める」ということ。

年末年始、年末は、すす払い(大掃除)、年越しの大祓、年始は初詣、茶道の初釜など清める機会が多いように思います。

熊倉功夫さん(MIHO MUSUEM館長)が「キヨメ」について書いている文章をご紹介させていただきます。

 

朝起きますと、まず顔を洗い歯を磨き、頭髪を整えますと、ああ気持ちがよい、と思った瞬間がキヨメではないでしょうか。

キヨメの第一は洗うことです。水は人間にとって不可欠のものです。水分補給のためだけでなく、物を洗い身体を洗うために必要ですが、心を洗うための水を大切にしたのが日本人です。それは日本の山野には清らかな水が豊富だったからでもありましょう。

その結果、水で洗い流すことで心の汚れもきれいにできる、という心理が日本人のキヨメ観になりました。話は脇道にそれますが、それを象徴するテレビドラマが山田太一の名作「岸辺のアルバム」です。45年くらい前に放映されたものですから、ご存じの方は少ないかもしれません。印象的なのは最後のシーンで、家庭崩壊している家族の住む家が、水害で流されるのです。残されたのはたった1冊の家族のアルバム。しかしその中には、かつての愛に満ちた家族の姿が残されていました。崩壊していた家族が、もう一度、アルバムをきっかけに再建に立ち向かう、というお話です。家族の憎しみや愚行、さまざまの汚れは、家と共に一挙に流れ去ったので、家族は元に戻れたのでしょう。「水に流す」という日本独特のキヨメです。

茶の湯ではキヨメの作法として手洗鉢(ちょうずばち)があります。「南方録」という茶書に、亭主も客も露地に入って、最初にする仕事が手洗を使うことで、ここで世塵をすすぎ清らかな心身になって茶室に入りなさい、と記されています。手洗鉢は、茶の湯が生まれる前は、一般の住宅になかったようです。もちろんお便所の前には手を洗う桶が置かれていましたが、庭の途中に手洗鉢はありません。手洗鉢は神社仏閣の入口に据えられるのが本来の姿です。ところが茶の湯が成熟してきますと、茶室の中で茶を点て、これを飲むという行為が、とても清浄な、脱俗(世俗のケガレを持ち込まない)を意味するようになりました。そのために、茶室に入る前に必ず心身をキヨメる手洗が必要となり、手洗鉢が置かれるようになったのです。

キヨメは水だけではありません。塩、砂、火、香なども大切なキヨメの手段ですし、祓(はら)う、という行為もキヨメの1つの方法です。

塩は仏事の後に、必ず昔は配られました。今も、お料理屋さんの入口にさりげなく盛り塩がしてあります。砂も同じで道などのキヨメに使いますので、上賀茂神社では本殿の前に大きな円錐状の盛り砂をいたします。火のキヨメは見る機会が少なくなりました。今でも伝統芸能では、役者や芸人が家を出るとき、家人がその背中に火打ち石で切り火をして、無事を祈願しますが、これが火のキヨメです。香も、実は悪霊退散のために炷(た)く香がありまして、亡骸の前で抹香を炷くのもその一例です。茶の湯には羽箒(はぼうき)というものがあって、座敷を掃いたり、炉端をキヨメたりしますが、基本は神道のお祓いと同じで、キヨメの作法といえましょう。〔「楽苑81号」(SHUMEI PRESS)『時と共にうつろう日本文化』第十一話より

 

「キヨメ」の原点は、日本神話に登場する伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の禊(みそぎ)だと思います。黄泉(よみ)の国からお帰りになった伊邪那岐命は「禊をして身を清めなくては」と禊祓いをなさいます。「上流は流れが速い、下流は流れが弱い(よどんでいて禊にならない)」と、中ほどのちょうどいいところを選んで水にお入りになり、身をすすがれました。するとそこから、次々と神さまが生まれます。そして、最後に三貴子〔天照大御神(あまてらすおおみかみ)・月読命(つくよみのみこと)・建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)〕の誕生を迎えます。

日本人のきれい好き、ほぼ毎日入浴するなどは禊の文化の名残といえます。

熊倉さんが書いている「水に流す」(人を許すことの意)の例も、罪ケガレを流す禊からきた言葉です。

そして、麻をご存じの方は読んでピンとくるはずです。祓うという行為の奥に大麻があることを。

清々しい新年を迎えるための「キヨメ」、迎えてからの「キヨメ」。ふだん何気なくおこなっていることを意識的にしてみてはどうでしょうか?

 

 

・参考文献

「現代語古事記」竹田恒泰著(学研)

「楽苑81号」(SHUMEI PRESS)