大麻(精麻)の注連縄をさがして
大麻(精麻)の注連縄をさがして【File002】~京都・護王神社編~
“狛いのしし”がお出迎え、賢人をたたえまつる護王神社
護王神社は京都御所の西、幕末の蛤御門の変(禁門の変)で有名な蛤御門の向かいに鎮座します。
この神社で特徴的なのは、鳥居横に狛犬ではなく“狛いのしし”が出迎えてくれたり、手水舎に、いのししの像があったりすること。
まず、狛いのししに見入ってしまいます。
ご祭神の和気清麻呂公命と、いのししの縁から「いのしし神社」とも呼ばれるそうです。
境内に入ってすぐ右側にある霊猪手水舎。いのししの口から水が出ます。 |
歴史をたどると、創建年は不詳ですが、洛西の高雄山神護寺に和気清麻呂公(733~799年)の霊社としてお祀りされていたのがはじまり。
それが変遷を経て1886(明治19)年、現在地に移って清麻呂の姉の広虫(730~799年)といっしょにお祀りされるようになりました。
「護王大明神」の神号を持つご祭神・和気清麻呂公命は、奈良時代の末、皇位を奪おうとした僧・弓削道鏡の野望をくじいて、皇統を守りました。
また、桓武天皇に遷都を進言し、平安京の都造りにも活躍した人物です。
清麻呂公の像。清麻呂公は奈良末~平安初期の官僚だった。 |
奈良時代末、称徳天皇に寵愛された僧・道鏡は、九州の宇佐八幡(宇佐神宮)からご神託があったとして、自らが天皇になろうとたくらむ。 清麻呂公は真偽を確かめるために宇佐八幡へ赴き、先の託宣は神慮に反することを突き止めた。野望を阻止した清麻呂公だったが、道鏡の怒りを買い、広虫姫とともに流罪にされてしまう。 だが、1年後の770(神護景雲4)年、称徳天皇が崩御されると、道鏡は失脚した。 |
一方、姉の広虫は現代でいえばマザー・テレサみたいな方であったようです。
764年、藤原仲麻呂の乱がおこった際、宮中の女官であった広虫はこの乱に加わった人たちの処分について、死刑者の減刑を願い出ました。天皇は死罪を流罪に改めたといいます。
また、このとき広虫は身寄りを失った子供たちを養子として受け入れ、養育したと伝えられており、こうしたことから広虫は「子育て明神」として崇敬されているそうです。
中門(写真奥)と拝殿。拝殿(右)は1890(明治23)年の造営。 |
足のお守り。お守りの裏には、いのししが描かれている。 |
その他、護王神社は、清麻呂が流罪になった際、旅の途中にいのししに足を治してもらったという故事から、足腰のご利益があるとされ、足や腰のお守りがあったり、毎月21日に足腰祭(参列自由、祈願料不要)があったりもします。
清麻呂の名前には「麻」の字が含まれていて、“清廉潔白”(心が清らかで私欲がなく、不正などをすることがまったくない)であったという清麻呂公のお人柄と、精麻でできた注連縄と鈴緒がシンクロしているように感じました。
(文責・加藤義行)
参考文献:
「知識ゼロからの京都の神社入門」佐々木昇著(幻冬舎)
「週間 日本の神社No.85豊国神社・建勲神社・護王神社・梨木神社」(デアゴスティーニ・ジャパン)